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小石川中等教育学校「伊藤長七創立の奇跡の私学」

更新日:

日本最高の理化学教育の名門 小石川の普遍性

 

日本の、小石川という学校の出身でして―。

 

異国の地での、とある研究者の集まりでの談笑だったという。

 

それは素晴らしい学校のご出身で。小平邦彦の母校ではありませんか。

 

意外だった。外国人の彼が、小石川を知っているとは。

小平邦彦。数学者で知らない者はおるまい。

複素多様体の研究分野を自ら開拓し、小平消滅定理や複素構造の変形理論が広く知られる。

ノーベル賞を超える、数学界の最高の栄誉とされるフィールズ賞。

日本初、そして、アジア初の受賞者が、小平邦彦であった。

日本が、いやアジアが誇る天才数学者。

小石川という母校が、また誇らしいものに思えた。

 

 

■ 小石川とは、伊藤長七であり、私学である。

 

「小石川はどのような学校であるか。」

 

もしもそう聞かれたら、こう即答する。

 

小石川とは、すなわち、伊藤長七である。」と。

 

誇大な表現ではない。小石川中等教育学校とは、すなわち、伊藤長七なのである。

その証左に、小石川中等教育学校を形容する以下のような表現を見かける。

 

“私学よりも私学らしい”

 

何よりも、現職の小石川中等教育学校の校長である梅原校長自身が、雑誌のインタビューでそう返答している。

梅原校長は、誇らしげに話す。

伊藤長七先生が打ち立てた、立志・開拓・創作の三校是と、教養主義、理化学教育、国際教育は揺るぎません。

正面玄関入り口に飾られる伊藤長七の胸像が、この学校の異色さを物語っている。

驚くべきことに、小石川中等教育学校は、1918年の府立五中としての創立以来、100年間、伊藤長七の教育理念を守り抜いている。幾多の激動を乗り越えて、伊藤長七の信念を、普遍化していった。

ならば、伊藤長七という男の物語を語らなければならぬ。

伊藤長七を知らずに、小石川を語ってはならぬ。

伊藤長七を知らずに、小石川を志してはならぬ。

小石川とは、伊藤長七そのものなのだから。

 

■ 小石川の原点は信州にあり 伊藤長七が起こした新教育の波

伊藤長七は1877年、信州の諏訪郡四賀村で生まれた。信州はそれ以来、今日まで小石川と深い関係を持つ特別な場所だ

諏訪郡育英会を卒業後、県内で唯一の上級教育機関であり、県下全域で最も優秀な生徒が集まる長野県尋常師範学校に入学する。伊藤長七の学業成績は常にトップであったが、徐々に古めかしい旧態の教育を変えようとしない教育界に大きな疑問を抱くようになる。時代は転向していた。生徒たちは、理想を追求する心が芽生えた。抑圧から自由への時代である。それにもかかわらず、抑圧により型の中にはめようとする教師陣。

この失望が、伊藤長七を中心とする前代未聞のストライキを起こす引き金となる。

長野師範学校の創立以来の大騒動。伊藤長七は教師陣に辞職勧告状を突きつけ、まさに教育革新運動の英雄であった。

大騒動がどう決着したのかは、信濃毎日新聞の記事には記載がない。しかし、当時確かに、時代に根ざした深く高きを求むる生徒たちの希求と、規律のみを強要する平面的教育との衝突があったのである。

伊藤長七は、四年間の課程を卒業して、諏訪高等小学校で教育者としての道を歩み始める。師範学校時代ですら、旧態の教育を批判し、新教育を声高に提唱していた伊藤のことである。彼が行った教育は、教師の権威と威厳を重んじ、机上での一斉教授を基本とする従来の教育とは、あまりにも、あまりにも対極的なものであった。

自由と感動で溢れ、個性と創造を何よりも大切にする教育の実践―。これこそが、伊藤長七の真骨頂であった。休憩時間は、教員室に戻らずに、校庭に出て嬉々として生徒と運動したり、一緒に飛び回った。雪が積もれば、生徒たちを課外へ連れ出し、雪投げ合戦に、雪中行軍、氷上運動の特別授業を行った。夏には登山露営、月夜の行軍、湖での遊泳、試験も廃止して、師弟間の人格接触に力点を置いた。時に、伊藤は公園に生徒たちを連れ出し、英雄伝を熱弁した。生徒に不幸なことがあれば、伊藤はその子の家に出向き、共に泣いた。いつしか、伊藤の自宅には毎晩、話を聞いてほしい生徒であふれるようになった。

従来の教育の型をことごとく破壊して、厳粛主義を完全に排除してしまった。するとどうだろう。教師への反抗が多いと評判だった学校は、男子生徒、女子生徒ともに親しみを持つようになり、生徒たちが声を上げて学校を歓迎するようになったのだ。

ところが、これを旧来の教育者や役人が快く思わなかった。「権威が損なわれ弊害がある」として非難の対象となり、新聞の論評も相まって、彼の教育は全否定される

学校方針を遵守しない厄介者の烙印を押された伊藤長七は、次々と学校を転任させられる。伊藤は頑固にも、行く先々で、教育の革新を叫び、新教育を断行し、その度に、保守的な教育者達と対立し、追放された。

こうして、伊藤長七は信州でのわずか3年間での新教育の実践を経て、教育界に今なお残る多大な影響を残し、信州を去っていったのだ。

小諸善光寺(立志山大雄寺)には、浅間山を背後に大きな伊藤長七碑が立つ。小諸でのわずか1年間の在職で、大いに感化された教え子たちが、伊藤長七を生涯忘れずに後世に伝え残そうと建立した石碑である。建立の代表者は、のちの小諸市長、国会議員の小山邦太郎。石碑の建立は、在職中に最も暴れん坊で伊藤を大いに困らせた依田巻太が発起人であった。

小山邦太郎は回想する。「伊藤先生の教え方が自由主義で生徒の総意を認め、学力も格段の違いのないよう指導する方針を採られた。常に立志、開拓、創作をモットウとして指導されたが、先生の主唱で同級会をつくり、立志同級会と命名したのも、先生の指導の方針からであった。」

伊藤長七が生涯にかけ熱弁した「立志・開拓・創作」の教えは、信州の地で生まれた。伊藤長七が信州を離れた後も、小諸小学校の教え子と伊藤長七の関係は、立志同級会として続くことになる。

「先生は感情にもろく、生徒を諭すに、私の指導が及ばなかったからだと、声涙共に下り、時に声を放って泣き出すようなこともあった。僅かに一年に過ぎなかったが、その感化は社会人になってから、いよゝ力づけられたことを感ずる。」

 

■ 現代教育観の脚光が、伊藤長七を表舞台に立たせた

東京の高等師範学校へ進学した伊藤長七は、その後、附属中学校で教鞭を執る。転機が訪れたのは、東京朝日新聞に全48回に渡り掲載された「現代教育観」だ。

「今後の教育界をいかにすべきか。今の教育界中、識見の非凡と、学徳の高遠と、もしくは意気の豪邁と、一片の熱誠と、その名、未だ世に知られずして、しかも邦家教育のため、顕々の誠を致す者、山沢の隅、広野のほとり、その数決して少なきにあらざるを信ず」

伊藤長七は、現代の教育界の現状を憂い、教育界の刷新を強く訴えた。「入学試験の悪影響」「画一主義の普及」「流行の詰込主義」「女学校教育の価値」「科学的研究の貧弱」「国定教科書の弊」…あらゆる分野に鋭く言及した。たちまち評判となり、教育界、財界、政界に至るまで大きな議論を呼ぶことになる。

伊藤長七の名は、信州のみならず、全国に広まることとなり、かくして、東京府立第五中学校の創立者として伊藤長七が選ばれたのである。

伊藤長七にとって、一から、自らの思い通りに学校を創ることが出来る。あの信州での実践と挫折を経て、理想の学校を創る機会を得たのである。

 

■ 「発明家や科学者を育てる学校」 まったく新しい発想で生まれた小石川

伊藤長七は、どのような発想で、小石川を創立したのだろうか。

当時の東京府の中学校は、府立一中(日比谷)を筆頭に、麻布、東京開成、府立三中、府立四中といった学校があった。首都たる東京の旧制中学校の役割は、国家を支えるエリート軍人や、官僚の養成である。

伊藤長七の発想は違った。これからは、自然科学の時代である。理化学教育を主とし、科学的に人格を養成する「科学者や発明家を育てる学校」を発起したのだ

理系進学を推奨するようにも考えられるが、そういうわけではない。これは、今日の小石川志望者にも「小石川は理系志望でないといけないか」といった質問がくる。伊藤長七の言葉を引用する。

「理工科志望者を推奨するようにも考えられるが、それよりも頭脳を科学的に練磨することが根本方針でなければならない。いったい今日の科学的教育理化学的知識は功利主義に傾き易い。これは現代教育の謬想であって、思想と科学とに交渉をもっと深くし、寧ろ緻密な考察力を生活態度の根底として、そこに人格者を養成することに科学の職能をおきたいと思ふ。」

今日の小石川の説明会でも、まったく同様の答えが返ってくる。

伊藤長七がこだわったのは「原理は後にして先ず事実」という方針だ。小学五・六年生の簡易な物理化学の実験に興味を持っていた児童であるが、中学に入ると、ただの博物学の知識教授になってしまっている。そうではなくて、机上では得られない、実験や課外での経験こそが、まず先行するべきだと主張した。

気がついた方もいるだろう。発想の原点が、あの信州時代の、若かりし頃の新教育の実践の数々にあることを―。共に行った登山露営、月夜の行軍、湖での遊泳、雪が積もれば、共に雪投げ合戦に、雪中行軍、氷上運動。自由と感動で溢れ、個性と創造を何よりも大切にする教育の実践―。

伊藤長七は、信州で道半ばで打ち砕かれた新教育の理想を、五中、小石川の地で開花させたのだ。

授業は、課外学習や実験・実習であふれていた。校舎には、物理実験室、化学実験室、博物教室、地理教室の専門教室が配置され、その規模と、日々の実験実習の多さは、「国内一」との評判であった。生徒たちは、連日のようにフラスコを振り、顕微鏡を覗いた。

夜間には生徒を集め、ドイツ製の8cm望遠鏡を用いた本格的な天体観測を行った。気象観測にもこだわった。気象観測法に基づく本格的な観測所を校庭に置いた。関東大震災の当日の観測値を、東大地震学教授から求められるほど正確な数値だったという。

教育課程も抜本的に変えた。伊藤は、博物学(生物学)、物理学、化学、地理学をひとまとめにした米国の方式が適当とし、国が定める3年次から物理化学を開始する学則を採用せず、入学当初の1年から学ぶようにした。数学についていえば、1年で算術、2年で代数、3年で幾何という順序は不適当として、組み替えた。卒業生によれば、4年次には、テンソル積やベクトル空間といった高等代数学(現在の大学教養課程程度)に進むほど高度であったようだ。

小石川生は、相変わらず今日でも、毎日のようにフラスコを振り、顕微鏡を覗き、実験に勤しんでいる。100年前となんら変わりない光景が繰り広げられているのである。

■ 日本初の背広にネクタイ、日本初の女性教師の採用、日本初の文化祭

伊藤長七は、当時の教育界の常識という常識を、ことごとく打ち破っていく

まずは制服であろう。当時の中学校といえば、詰め襟だ。府立一中、開成、麻布、どの学校も同様であり、それこそがエリート校の証であった。

ところが伊藤は、「諸君は若年といえども、ジェントルマンである。故にわが府立五中は紳士の学園である」と語り、服装からまず「紳士」としての自覚と誇りを持たせようと、日本国内で最初に、背広とネクタイの標準服を採用した。現在におけるブレザー型の制服の走りとなったのだ。

当時の生徒にとってみれば、周りの中学校が詰め襟を着るなか、洒落た英国風のスタイルはスマートで、世間や生徒からの評判はすこぶる上々だったという。

なお、今日の小石川の前期課程の背広とネクタイの標準服は、伊藤長七時代の標準服を現代風にアレンジしたものであること、もはや言及の必要はあるまい。

女子教育の先進性も、伊藤長七ならではである。当時の中学校はすべて男子校。教師も、男であるのが当然であった。

伊藤はそこで、「男女が共に教えるべき」という「男女共教」なる思想を披露し、日本の中学校で最初の女性教師を採用した。栗山津彌は、漢文教師として採用され、以後も続々と女性教師が採用されることとなる。まだ「男女共学」が社会的になしえなかった時代、実現に向けた最初の一歩を、伊藤長七が実現したのである

極めつけは、創作展の開催である。伊藤長七はかねてより、生徒たちの創作活動を高調した。他人のつくったものを、ただ消費するという受動的態度に陥ることなく、自分で考え、工夫し、他人のまでではない新たなものを創り出す姿勢を強調したのだ。

1921年、ついに創作展覧会の開催が実現した。会場に至る廊下に貼られた無数のポスター。絵画、電信機、電車、汽車、汽船の模型、その他電気仕掛けの器械の数々。採集された植物、動物、授業の創作課題作品、文集、彫刻、地理や歴史を記した地図、イネの変種や繭の遺伝、トウモロコシの遺伝研究、気象観測、独自の寒暖計、気圧計、軽便測量機、伊藤長七の外遊に関連した品々も陳列される。

なにせ、中学校生徒の日々の学習成果を大々的に一般公開するなど、前代未聞、国内で初めての試みであったことから、創作展覧会は異例の注目を浴び、三千人を超える一般来場者があり、新聞にも大きく報じられた。伊藤長七の面目躍如といったところだろうか。

こうして、国内で初の文化祭である創作展の歴史が始まった。日本の中等教育における文化祭は、伊藤長七のアイデアにより幕を開けるのである。なお創作展は、戦中の混乱期を経て、今日まで連綿と受け継がれている。2019年には、日本国内の文化祭としては最長となる第88回の創作展が開催される予定だ。

 

■ 「立志・開拓・創作」の三校是が100年間変わらず

立志、開拓、創作

伊藤長七が事あるごとに熱弁したというこの言葉を、今日では三校是と呼ぶ。入学式で語られた言葉を引用しよう。

立志とは、昔、支那周代の大聖人、孔子が十有五で志を立て、学問を始められたように、それとほとんど同じ年頃の日本の男子が、高等普通教育を受けるために中学校に入学する志を立てることである。かのマゼランの世界一周、かの博士ヘディンの中央アジア探究、あるいはナンセン博士の極地探検、いずれが 開拓の精神の発露にあらざらん。さては高峰譲吉博士、野口英世博士のごとき、あるいは南米各地に移住植民せる同胞の若き男女のごとき、これらを真の開拓者という。しかり、しかれども、我らのいわゆる開拓者は、決して遠征家、海外移住者の如きに限れるにあらず。キュリー夫妻 のごとく、マルコーニ のごとき者、齢八十にして発明の意気なお颯爽、過去に成功せし一千百種の発明を基礎として、さらに新たなる大発明を企てるエジソン博士のごとき、これを真の開拓者という。創作とは、自分の力でできるだけの仕事を、自分でなし、自分で考え、自分で工夫し、他人のまねでない、何かを作り出すということである

今日において、三校是は平易に、「自ら志を立て、自ら進む道を切り開き、新しい文化を創りだす」と解釈される。

小石川の卒業生に聞けば、この校是を生涯の精神的拠り所とする者の多きことに驚嘆する。本文の執筆にあたって、五中・小石川を卒業したOB、OGの書物を漁ったのだが、母校を語るとき、誰もがこの「立志・開拓・創作」の精神を持ち出す。

自分は今、志を打ち立てているだろうか。自ら道を切り開く、開拓者たるだろうか。人生において、何か、他人のまねでないものを創作することができるだろうか。

失礼ながら、世間の中学校や高等学校の教育目標や校訓なんて、ほとんど誰もが、気にもとめない。生徒も、そして教員も。誰も知らず、知られずに、形骸化の一途をたどる。卒業しても、誰も覚えていない。何の影響も及ぼさない。それが当たり前だと、私も思っていた。

小石川の「立志・開拓・創作」の三校是は、異質だ。

この言葉が、なぜこんなにも、魅力があり、人々の心を掴むのだろうか。

私が思うに、三校是を熱弁した伊藤長七自身がまさに、「立志・開拓・創作」を地で行く生き様だったからではないか。だからこそ、この言葉がが血の通った本物の教えとして、突き刺さるのだろう。そして、幾多の時代を経ても、「立志・開拓・創作」の精神に基づいた教育を、小石川は変えることがなかった。小石川で青春を過ごした者は「立志・開拓・創作」の精神が意識せずとも、血となり肉となる。

どの年代に聞いても、「立志・開拓・創作」は多大な影響を与えている。100年の世代を飛び越えて、五中・小石川をつなぐ共通のアイデンティティとなっている。

 

■ 大正時代に「国際人たれ」と唱えた伊藤長七の先見性

豪勢な時代であった。

伊藤長七は、校長在任期間中でありながら、世界中を外遊しているからである。ある時には、校長会出席のために満州の奉天へ。またあるときには、横浜を出航し、一年余に及ぶ欧米教育視察に出発している。

国際人たれ」と唱えたのもまた、伊藤長七であった。

その積極的な国際交流のエピソードの数々には驚かされる。アメリカの教育視察の際、第一次世界大戦後の平和体制に向けたワシントン会議が開かれることを知るや、突然にワシントンへ向かい、会議を傍聴。そこでアメリカ国務長官と話が盛り上がり、ハーディング大統領との単独面会を実現させている。

カナダでの教育視察の帰途の際は「船を間違えた」と言って、突如南米行きの船に乗り込んだ。ブラジルへ向かい、アマゾン川流域にある、信濃からの日本人移民の入植地を視察し講演を行っている。実は伊藤長七にとって、この地に学校を創立することが大きな夢であった。その後、貫通したばかりのシベリア鉄道に乗って帰国をしている。伊藤長七は、海外への外遊から帰ると、生徒たちに国際人としての自覚と学びを訴えた。伊藤長七の言葉を引用する。

日本国民として、昭和の世界に生きんとする若き男女には、どうしても系統的に、またきめ細かな国際教養を施さなければなりません。一口に国際教養と申しますと、洋食の食べ方を器用に、外国語を手際よく口にし、気の利いたハイカラ振りに身支度するというような、その種の躾をすることのように思い込む人が少なくないと思いますが、国際教養上第一に重要視すべきは純真なる人類愛のこころ、正義、人道に終始せんとする信念に生きんとする心を育てることであります

中略

日本の国体は万国に冠絶し居ることは申すまでもありませんが、歴史において日本ばかりよい国であると教えぬように、殊に米、支、露などを、頭からだいなしに悪くいふやうな独断をいふやうな失態なからんことを切望します。・・・学問、事業、旅行等のあらゆる場合を考ふる時、私共誰でもの生活そのものがすでに国際的になって居るといふことを、是非眞味に、若き日本人に呑みこませたいのであります。我が産業の行き詰まりを救ふ道も人口問題の解決も、我が国民の心の鏡に今や投げかけられたる暗影を拭ふ道も、上述の如く若き人々を国際的に仕立てるといふことがその主眼であると私は中心より考へて居ります。(1929年)

 

伊藤長七の伝説的なエピソードとして、日本中の少年・少女から国際交流のための手紙を募集し、手紙を1枚ずつ、行く先々の世界中の子供たちに配ったことが知られている。

100年前、一般の子供が海外との接点を持つなんてあり得なかった時代。当時としては前代未聞の壮大な企画は、「国民外交の卵 ―少年少女の国際通信」と題して新聞紙上でも大きく取り上げられた。

伊藤長七の秀逸であるのは、それを自分の学校の生徒たちに限定せずに、小学生や中学生、男子、女子の別け隔てもなく、日本全国のすべての少年・少女から集めたことだ。結果、予想を遥かに上回る数の手紙が伊藤藤七のもとに集まった。その数、1万5000通。さすがに、伊藤も数の多さに困ったようだ。

実は、集まった手紙の中には、提示した条件に合っていないものも散見された。伊藤曰く、最初は「少数のよいものだけを」と考えたそうだ。だが、その手紙の一つ一つを開き見ると、どれも日本全国の少年少女が、拙くぎこちなくても、日本の国の紹介やら自分の家を書き連ね、まだ見ぬ人からの便りを聞こうと、純粋な心で外国の子供に友情を求めていた。喜びで胸がいっぱいになった伊藤は、とうとう1枚も捨てることはできずに、1万5000通をすべて荷物として持っていくことにした。その荷物たるや、大きな旅行用スーツケース三つと行李一個が埋まり、荷物の半数以上が手紙で埋まってしまったという。

伊藤長七は、ワシントン、シカゴ、デトロイト、ピッツバーグと、行く先々で、一枚ずつ渡していった。ある人には反対され、またある人には笑われたという。しかし、伊藤は真剣であった。現地の学校を訪問しては、国際交流の意義を力説した。

フィラデルフィアのセントラル・ハイスクールでの、2000人の生徒を面前に行った講演が日本語訳で残っているので一部を引用する。

「日本は長い歴史を持っている。アメリカは立派な歴史を持っている。しかし私たちがそれぞれ自分の国の歴史に誇りを有するというその意味は、今日までこういうことがあったと、祖先の偉業のみを誇るべきではないと思います。私たちと私たちの子孫が、今から後にどんな歴史をつくり得るか、その将来の歴史にわれらの真の誇りをもつべきであります。その歴史は必ずや平和の歴史であり、真の国際的文化の歴史でなくてはなりますまい。しかもそのような歴史の創作にあずかって力あるものは現在生きている大人よりも少年少女の方が優っています。その趣意から懸け引きなしの国際をいたしたいものでありますが、この点について私の携帯せし少年少女の手紙から考えても、子供というものは本当に大人よりも国際が出来るものと思います。」

 

 

■ 伊藤長七、道半ばで死す だが、その思いは途切れない

昭和5年4月19日、伊藤長七、死す。享年、五十三。

五中・小石川の創立という、他に類を見ない学校を創立し、海外に新たな学校を創立しようという、次なる創作を打ち立てていた矢先の病魔であった。

学校では、異例の学校葬が行われ、3000人を超える参列者があったという。現在正門玄関に置かれている伊藤長七胸像は、翌年に建立された。

天性の自由主義教育者、伊藤長七が残したもの。我々に伝えてきたこと。

それは今、戦後の学制改革や学校紛争、中高一貫校化といった波を経てもなお、小石川に息づいている。

 

■ 「私たち、親子三世代で、小石川です。」

「私たち、親子三世代で、小石川です。」

利発そうな少年とその保護者と思しき女性が、梅原校長に挨拶をしていた。

2019年3月16日、東洋大学白山キャンパスにて、「第2回伊藤長七研究フォーラム」が開かれた。「伊藤長七の教育思想と現代」をテーマに、小石川の同窓生、現役生、現職教員、元教員、歴史研究者、そして、伊藤長七が出身の諏訪郡育英会の流れを汲む諏訪清陵高校の同窓生を中心に大いに賑わった。

伊藤長七が五中・小石川を創立してから101年が過ぎた。すでに在りし日の伊藤長七を知るものはいない。だが、五中・小石川に根付いた伊藤長七の精神は、連綿と受け継がれている。

パネラーには、小石川中等教育学校の栗原卯田子元校長も参加した。彼女の経歴は、まさに伊藤長七と、見えざる糸で結ばれる運命だったといって過言ではない。

栗原元校長が教育者への道を選択するきっかけの一つが、村上信彦著の「音高く流れぬ」という小説だ。自由主義をモットーとする学校で、貧困、学問、思想、異性、など、様々な葛藤を乗り越えながら無政府主義の思想を研ぎ澄ましていく大作だが、ここに出てくるG中、そして江藤長八こそ、小石川と伊藤長七がモデルだったのだ。栗原元校長は、学生時代に小石川が舞台の小説を読み、教育への道を志し、そして数十年の時を経て、伊藤長七の思想を受け継ぐ小石川中等教育学校の校長職に就いたのである。

栗原元校長の運命はそれで終わらなかった。小石川中等教育学校を定年退職後、成城学園から招きがあり、校長に就任した。成城といえば、小石川と共に日本の大正自由主義教育の震源地。そして、成城の創立者である澤柳政太郎は、伊藤長七を創立者に抜擢した人間の一人であり、カナダの国際教育会議で共に日本代表として演説をするなど、よき理解者であった。

栗原元校長は、小石川在任時代、生徒たちに対して、よく伊藤長七の話を聞かせた。小石川中等教育学校では、歴代の校長先生が、生徒たちに、伊藤長七という男の生き方の話をする。そして、小石川という学校の生まれを語るのだ。幸い、語るうえでのエピソードは事欠かない。

フォーラムのおしまいに、全員で五中・小石川中等教育学校の校歌を合唱した。まだあどけない10代前半の中学生から、90代の同窓生が、伊藤長七が作詞した、1つの校歌を共有して歌うというのは、壮観な光景であった。

 

■ 小石川生は、今日もフラスコを振り、顕微鏡を覗く

 

小石川中等教育学校のある日の風景。

ある生徒は、フラスコを振っている。またある生徒は、顕微鏡を夢中で覗いている。

小石川中等教育学校は、物理・化学・地学・生物の各実験室と、数学・情報の講義室を放課後や休日に開放して、生徒たちの自主的な探究活動を後押しする仕組みがある。

物理分野では、上條隆志氏による輪読会が名物だ。上條氏は、小石川の物理を20年間支え、国際物理オリンピックにも携わる、日本代表する物理学の高校教育者の一人。近年は学習院大名誉教授の江沢洋氏と共に国際物理五輪の問題集を出版し、日本における国際物理五輪を支えている。

輪読会は毎年テーマを決めており、「原子論」などの大学教養課程に踏み込んだ探求を年間をかけてじっくりと行う。参加者は、1年生から6年生まで学年不問で集まった興味のある者と、大学で物理学を研究するOB・OG生。学問的な探究心さえ持っていれば、年齢や物理の成績は関係がない。

使用する教科書は、大学の教養課程で用いる「現代物理学」(朝倉書店)だ。ある日の実験室では「運動のベクトルによる解析」の講義が行われていた。

中等1年生や2年生にとっては、ベクトルや微積分の理解が前提となるので、理解の極めて難しい内容だ。上條氏によると、輪講で微分を扱っているとはいうが、難解であることには変わりない。それでも、食らいついていく向上心の源は知的好奇心の高さであろう。

もっとも、小石川中等教育学校の在校生に聞けば、あっけらかんとした答えが返ってきた。

「小石川には、数学を趣味にしている連中がいっぱいいますから。1、2年生であっても「大学への数学」を愛読書に、微分や積分を独学で学んでいる人は、うちでは珍しくないですよ。」

 

■ 小石川には、高校生の研究者がいる

小石川中等教育学校は、伊藤長七の建学以来、「出る杭を伸ばす」教育と校風が確立されている。増井真那氏は、若手の生物学研究者として注目を集める。小石川在学の研究者だ。

5歳で変形菌の魅力に取り憑かれた彼は、小石川中等教育学校で、変形菌に関する研究者として本格デビュー。在学中に執筆した「世界は変形菌でいっぱいだ」(朝日出版社)は、を生物分野の専門書籍としては異例の売れ行きとなった。

現在では、変形体の自他認識力をテーマに研究。国際論文にも掲載され、日本変形菌研究会会員、東京農工大研究員として活躍の場を広げている。

 

■ 立志・開拓・創作の醍醐味を味わう壮大な物語 小石川フィロソフィー

小石川中等教育学校を語るにあたって、小石川フィロソフィーを語らぬ訳にはいかないだろう。

6年間という長きに渡って行われる課題探究型の学びだ。1学年ごとに習得するべき力が明文化され、段階的に学んでいきながら、学術研究を深め、最後に集大成として、海外での論文発表と討論を行う。

学問の志を立て、一つの分野を開拓し、自分の力でできるだけの仕事を、自分で考え、工夫し、他人のまでではない、創作を行う

研究者の生涯をかけた壮大な営みを、10代の生徒が“小さな研究者”として体感する。

伊藤長七が打ち立てた「立志・開拓・創作」の具現化。

これこそが、小石川フィロソフィーの醍醐味である。

 

1、2年生は、探求の基礎として、自らの意見を表明する表現力、読解力、数値や資料の解析、数学的思考力を磨く。入学したての1年生の授業を拝見すると、独自のテキストを基に、各生徒たちによる書評合戦が行われていた。本の概要と魅力を、限られた時間の中で相手に伝えるのは想像以上に難しい。まだまだ発表がぎこちない生徒も多い。すぐさま教諭が、発生する諸問題を提起し、全員で闊達に議論をし、共有、修正を図る。5年後には、英語による学術研究の発表が待ち受けている。そこまでの道のりは、気の遠くなるような段階的学びである。だが、そんな彼らも、2年生にもなれば、成長の片鱗を見せる。

2年次の11月頃、統計グラフコンクールに応募した作品を用いたポスター発表会が行われる。「食品ロス」「公害」「スマホ依存」といった身近な話題について、多数の生徒や教諭、統計学の専門家の面前で発表を行う。入学当初、発表に課題のあった生徒たちが、堂々と発表をおこない、参加者は活発に質問をして、議論が行えるようになる。まだまだ、発表内容の学術性は低い。しかしながら、昨今の日本人研究者にとって致命的に必要とされる、人前で魅力ある発表を行い、疑問点を洗いざらい質問し、議論を重ねていく姿勢が、この段階にして身につくことは意義深い。

3、4年生は、学問の研究者としての学術研究を行う方法を学ぶ。学術テーマの設定、仮説と検証、情報と文献収集、研究の発信など、学術の世界に足を踏み込む上で必須の知識を実践を交え習得していく。研究内容も、学術性の高いものになる。

研究は地道な「仮説と検証」の繰り返しだ。研究活動にあたっては、学術論文を実際に執筆する立場のOBの教授を招き、知的財産や情報リテラシーを理解したうえで、本格的な研究に挑む。

生徒たちは、教諭の専門領域により開講されたいずれかの講座に入り、大学のゼミさながらの講義と研究が実施される。以下は開講講座の一例だ。

  • 「古事記」と日本 ― 地元の神社から御代替わりまで
  • 和歌の世界
  • 世界の三大宗教を学び、研究する
  • 裁判の変遷と裁判員制度
  • メディア活用研究 ~新聞から考えるジャーナリズム~
  • 第二次世界大戦はどう語られてきたか
  • アフリカ概論
  • 車窓から眺める人と街
  • 解析統計
  • 結び目理論
  • 地学研究
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自然科学分野の講座については、改めて説明せずとも、十分にご承知であろう。ここでは、歴史学や哲学といった人文科学の講座について紹介したい。

中家教諭が開講したのは「裁判の変遷と裁判員制度」という講座だ。中家氏は、小石川の地歴科20年目。山川出版の教科書「詳説 日本史B」の編集も務めるベテラン教諭だ。中家氏は講座の開講にあたって、以下のように語った。

古来、ことの正否を問う裁判は、ある時代には神が、ある時代には朝廷が、又ある時代には幕府が担ってきた。明治以降は裁判官が審理に当たってきたが、中世の一時期と、現代の裁判員制度において、庶民がそれに関わっている。この講座では、前半部で裁判の歴史を紐解き、「裁く」とは如何なることか考えてみたい。そして後半部では裁判員制度と従来の裁判官による裁判との違いや、陪審制をとる英米、参審制をとる仏独伊等とも比較しながら日本の司法改革の現状を学びたい。

講座には、法曹界に興味のある者を中心に10名程度が集まった。3月の研究発表に向けて、各自が中家教諭の助言を受けながら、研究テーマを設定し、研究活動に勤しむ。中家教諭は、時には講座生たちを連れ出して、最高裁や東京地方裁、法務省法務資料展示室にまで足を運ぶ。法曹という共通の興味を持つ講座生と担当教諭の密なつながりは、クラス学級、委員会、部活動といった集まりとは異なる、新たな自分の居場所となる。

岡田芳男教諭は、倫理・哲学の専門家。小石川の在位18年目のベテラン教諭である。開講した「世界の三大宗教とその周辺」では、キリスト教、イスラム教、仏教、神道などの基礎的概観を学んだ上で、各自の宗教の興味分野の研究へと移行する。宗教の研究は、難解な原典資料を読むこともあるので気概が必要であるが、その分、研究テーマは幅広い。生徒達は「ゾロアスター教の意味」「なぜ魔女狩りは行われたのか」「スリランカの仏教」「日本人は無宗教か」「アンコール遺跡に見られる宗教建築・彫像」といった多岐にわたるテーマで研究発表を行った。

芸術分野の講座も多彩だ。「美術作品研究」については、伴大納言絵巻の研究者である明治神宮の黒田泰三氏を招き、1学期をかけて、絵巻の模写を行い、芸術作品の理解に努めた上で、2学期に向けた論文の書き方の講義を受ける。講座には、芸術分野の志望者だけでなく、美術史に興味のある者も集まり、少人数による密度の濃い講座となるようだ。

以上のように、講座は自然科学分野に偏っておらず、生徒たちの興味関心は多岐にわたる。伊藤長七の言葉を借りれば、小石川の教育は、自然科学分野に特化しているのではなく、頭脳を科学的に練磨することを方針としているのだ。

5年生では、4年次に作成した研究論文を深化させ、集大成として外国人に英語で研究内容を説明する。小石川生は、すでに4年次には高校課程の英語を大部分修了しており、5年次には英語によるプレゼンテーションや討論の機会が豊富に用意されている。これまでに培ってきた語学力と研究論文が、ここで融合するのだ。

シンガポールでは、4つの現地校に分かれ、各自が現地生に対して、ポスターを用いて発表を行う。現地生からは、たくさんの質疑が飛び交い、的確に英語で答えなければならない。語学力がなければ息詰まるし、研究も深みがなければ息詰まる。さながら“小さな学会”という様相だ。

こうして、あのぎこちない書評合戦から始まった小石川フィロソフィーは、研究論文の海外発表で最高潮を迎え、幕を閉じる。

しかしながら、研究活動がそこで終わるわけではない。望めば、6年生になっても継続して研究活動に取り組む環境が用意されているし、大学進学後に、研究を継続させる者も少なくない。新たな興味関心が開拓されることもあろう。「立志・開拓・創作」という営みは、生涯をかけて行うものなのである。

 

■ 創作展で体感したい “都立の青春スタイル”

伊藤長七が、生徒たちの創作意欲の発露の場として創った創作展。1921年に始まり、今年で第88回を迎える、日本最古の学校文化祭である。

ところで小石川中等教育学校では、この創作展と、芸能祭、体育祭の三大行事を、短期間に一気に行う。これを行事週間と呼び、この期間中は、一切の授業を行わずに、生徒たちは行事に専念できるようにするというのが、長い間、教師と生徒の間で培われた暗黙のルールだ。

さて、この創作展であるが、各クラスの出し物と、部活動の発表が主体となっている。1~2年生の立志部門は展示発表だ。ピタゴラスイッチ、ギネス記録といった各クラスの自由で多彩な展示が見られる。

3年生~6年生は演劇が多い。特に、6年生のクラス演劇は、最後の創作展とだけあって、各クラスとも異様な熱気があり、各クラスが「創作大賞」を目指して奮闘する。

6年生のクラス演劇は人気が高く、プラチナチケットとなりやすい。混雑必須だが、小石川の受験を希望している生徒は、1度は見ておいた方が良い。

そこにあるのは、一つの学校行事に全力を掛けて青春をするという、古き良き都立の学校文化だ

小石川中等教育学校は、両親共に別学の私立中高出身者の割合が高い。両親が私学出身であるから、娘息子も当然のように私学を目指す。その過程で小石川の教育に惹かれ、志望したというパターンだ。

そのような文化を持つ家庭にとって「大学受験も控える高3生が、男子、女子関係なく、最後の学校行事に全力に取り組み、最終公演は、役者役から裏方役までが涙を流す」という姿が随分と新鮮に映るらしい。

確かに、一般の私学は、文化祭をはじめ学校行事は高2生までの参加が主流だ。そもそも、別学の多い都内では、男子生徒と女子生徒が共に協力して行事を創り出すことが珍しい文化だし、クラス演劇の文化も私学にはない。だから、小石川のような、古き良き都立名門校の青春スタイルは、ある種のカルチャーショックを受けるのだろう。

「演劇に興味のない人に、小石川の学校文化は楽しめるのか」という疑問を持った方は、ぜひ、演劇会場や裏方役に注目していただきたい。演者だけが主役でないことが分かるはずだ。

美しく彩られた廊下外装、教室内を小劇場へと変貌させる教室内装、公式ウェブサイトを運営する宣伝広告班、演劇の重要な役割を担う照明音響、中庭の巨大パネル製作担当、限られた時間枠に収める器用さが求められる台本担当―。

それぞれが得意分野で活躍する場が用意されている。小石川は、専門的な知識や高度な技術を持つ生徒の集まりだ。彼らが、それぞれの得意分野で、1つの作品を創るために青春を捧げれば、そこから生まれるのは、ほかの誰にもまねできない、唯一無二の作品である

小石川中等教育学校には、文化祭が二つある。進学校の中には、文化祭自体が二年に一度しかない学校もある。それなのに、1年で二度もあるなんて、なんと贅沢な。

芸能祭は、1919年に始まった学校行事で、生徒による芸能祭実行委員会が企画・運営を行う。オーディション参加型のユニークな行事で、各生徒たちの自由な結成と参加が認められている。7月のオーディションを通過した団体は、ステージで様々な催しを行う。

部活動関連でいえば、小石川フィルハーモニーの演奏は名物であろう。このほか、選考を勝ち取ったバンドグループや、お笑い、演劇、ダンスなどが披露される。

芸能祭の魅力は、実力があれば、あらゆる種目において参加が認められる点だ。お笑いが好きな生徒が「人を笑わせる漫才をやってみたい」と思えば、自主的にメンバーを募り、オーディションに参加をする。各学年の審査員による投票で通過さえすれば、ホールでの公演が認められるのだ。特に、たくさんのバンドが所属しているフォークソング研究会にとって、オーディションを勝ち取っての芸能祭での演奏は憧れの舞台であり続けている。

実力主義であり、選ばれしものだけが公演できる場であるからこそ、芸能祭は、創作展にはない、また別の輝きを放っているといえる。

 

■ 小石川を志すということ

全然、変わっていないんですよ。びっくりしました。

 

小石川中等教育学校に在学の息子が、生物実習のテキストに悪戦苦闘している姿を見て、思わず苦笑いをした。

見覚えがある。苦い思い出だ。数十年も前の記憶が蘇る。

あの頃の僕も、生物実習のテキストに、頭を抱えていた。

小石川生にしか分からない、“例のあれ”だ。

入学当初に渡される分厚いオリジナルのテキスト。

物理、化学、生物、地学の全分野を学ばされた。

理科の授業は、実験と実習ばかりやっていた。

白紙のノートに、実験結果や考察をすべて書かせられた。

不十分な記述があると、赤字の添削がびっしり書かれ返却された。

適当に出したら、きちんとした考察を書けるまで何度もやらされた。

高3なのに、今日は課外授業だといって、大学の研究所に連れて行かれた。

教養が大切だといって、理系なのに、古典も、日本史も、世界史も、倫理も、すべての授業を受けさせられた。

進学校って、どこもこんな感じなのかと、当時は思っていた。

「そんな進学校、あるはずないだろ。」友人に呆れられた。

結局、一浪して国立大学の理工学部へ進学した。

 

高校では劣等生の僕が、大学ではなぜか、優等生の扱いを受けた。

基礎実験の授業があると、君は実験器具の扱いに手慣れてる、趣味で扱っているのか、と不思議がられた。

考察結果をレポートで提出すると、君は書き方をよく心得ている、と褒められた。

1年次は、高校でやったことのある実験ばかりで、少し退屈だった。

教養課程では、高校時代に興味を持った歴史学や哲学の講義も受講してみた。

友人を誘ったら「高校は理系だから、歴史学や哲学はよく分からないし、興味もないよ」と断られた。

あれ、そうなんだ。

そういうことなんだ。

僕は、薄々感じていたことを、ついに理解した。

そうか、世間では、そうなのだ。

周りが、おかしいわけではないのだ。

小石川という、あの学校のやっていることが、おかしかったのだ、と。

 

 

もう、今夜は徹夜決定だよ。寝られそうにない。

 

息子の悲壮な顔を見て、自分の高校時代の話をしようとしたが、やめた。

父親の威厳を、保てなくなると思ったからだ。

 

その苦労は、遠回りだけれども、必ず、報われる。

それだけ伝えると、息子は、なんとか頑張るわ、と言って、自室へ戻っていった。

 

最近、母校の小石川が、やたらマスメディアに取り上げられている。

コスパ最高とも 中高一貫の小石川 未来人を育成

小石川中等教育学校の男子の進学実績 麻布と並ぶ

おいおい、「コスパ」とか「進学実績」って、小石川のこと、何も分かっていないじゃないか。

小石川を「コスパ」なんて言葉で語って欲しくはない。

小石川を「東大の進学実績」で評価して欲しくもない。

伊藤長七が唱えた「立志・開拓・創作」の精神を、大学受験なんていう、矮小化された世界で語って欲しくはないのだ。

母校の教育は、革新的だという評がある。

21世紀型教育の先進校だという評もある。

ちょっと待ってくれ。小石川の教育は、大正時代の世から、進化こそすれ、建学以来の方針は、何も変わっていない。

もしも、それを「革新的で最先端だ」と評価するのであれば、それは、伊藤長七という男が、100年も先を見据えた、先見の明を持っていたということだ。そして、歴代の校長、教師、生徒たちが、頑固にもその方針を貫き通したことで生まれた、奇跡であろう。

明治時代の世、伊藤長七の行った教育は、あらゆる方向から否定をされ、非難された。それでもめげずに、理想を追い求め、他に類を見ない学校を創り上げたのだ。

府立五中・小石川。

僕はこの学校を、誇りに思う。



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